創世記 第1章26節 それから、神は言われた、「われわれのかたちに、われわれの姿にしたがって、人を造ろう.そして彼らに、海の魚と空の鳥と家畜と全地と地を這うすべての這うものを治めさせよう」。
神が人を創造されたのは、最初からご自分のかたち (内側)、姿 (外側)。つまり、神と同じ神類でした。Y.I. 小学生の時、進化論を初めて聞きました。人間は猿が進化したものである。その瞬間、心の中で『そんなことはない』と叫びました。そして数十年後、聖書を初めて読み、人は神が創造されたと書かれているのを読んだ時『なるほど、なるほど』と納得しました。Y.M.
使徒行伝 第17章24節 宇宙とその中の万物を造られた神は、天と地の主ですから、手で造った宮の中には住まわれません.
全て人が、人自身のために造ったものは偶像でしかありませんので、何の意味も無く、ただ虚しいものでしかありません。Y.M.
ゼカリヤ書 第12章1節 天を延べ、地の基を据え、人の霊をその中に形づくられたエホバはこう告げられる、
神は人の霊を天、地と等しく重要な項目としてつくりました。人の最も内側にある霊は神と接触し、神を受け入れる器官として重要です。T.Y.
マタイによる福音書 第11章28節 すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える。
現在、多くの情報に翻弄され、混乱していませんか?。私はかって暗闇の中でさ迷っていました。イエス・キリストの招きに応じ、行きました。安息を得て今があります。Y.M. それは約束です。「主イエスよ、たったいまわたしは今あなたに行きます。」こう祈ることは小さいことではありません。イエスには選択の余地がありません。それは主のみこころです。主はご自身をわたしの安息として与えることを決定されます。T.K.
ヨハネによる福音書 第4章14節 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない.
この世の "一杯の水" は一時渇きを癒すが、またすぐ渇く。人は次々試すが、何も渇きを止めさせることはできない。イエスは、生ける水として命を与えるため世に来た。彼こそ "その水"! N.Y.
ヨハネによる福音書 第6章48節 わたしは命のパンである。
パンは人の食物の総称です。物質のパンは目に見えますが、命のパンは目に見えません。見えるものは見えないものがあることを暗示します。イエスは、命のパンである神の言葉です。それは人を養い、心の楽しみとなりました! N.Y.
コリント人への第二の手紙 第4章8節後半 出る道が全くないのではありません。
これは迫害の下で、死と復活の命を生きた人の言葉です。危機に瀕している方々、万策尽きたようにみえるとき、この語りかけはあなたの心と共にあります。私達に臨む試練で人の常でないものはありません。しかしあなたが、心を神に向け、神に向かって「主イエスよ!」と叫ぶなら、神は信実です。「むしろあなたがたがそれに耐えることができるようにと、その試みと共に、出て行く道をも備えてくださいます。(コリント人への第一の手紙 第10章13節後半)」 N.Y.
創世記 第3章9節 エホバ・神はその人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか?」。
聖書は神と人の会話に満ちています。あなたはこのような方をお持ちですか?霊となったわたしたちの神は、わたしたちの中に生き、住み、だれよりもわたしを理解してくださる方です。もしあなたがむなしいと感じるなら、あなたはイエスに話しかける事ができます。N.Y.